お葬儀について

お葬儀は時代と共に様々に変化して参りましたが、近年のお葬儀のあり方も随分に様変わりして参りました。

私が僧侶に成り立ての頃は今と比べれば随分と仰々しいお葬儀でありました。参列者も大勢でしたし、僧侶も「導師一人だけ」(独葬・どくそう と申します)で葬儀を執り行うことは少ないことでした。

今は「家族葬」という新語のもと、随分と縮小されたお葬儀が一般的になってまいりました。もちろん高齢化に伴う晩年の施設費・医療費などの出費の拡大、故人の横の繋がりの方々の高齢化、喪主は既に現役を引退、或いは又近所付き合いの希薄化、等々様々な理由がありましょうがそのような事情により葬儀社の葬儀の対応も変化して当然ではありましょう。さらに近年はコロナ禍が葬儀の縮小・質素化に拍車をかけております。

そのような中、葬儀社によっては「とにかく安価で質素な葬儀を提案して数をこなす」という方針が目につきます。何しろ日本の高齢者の数は過去最多です。もちろんお商売ですからそのような方針への取り組みも当然と言えば当然の事でありましょうが、昔ながらの葬儀社の方々の中には「安いには安いだけの理由があるのですよ」と仰る方もあります。

また私自身も時として何とも腑に落ちない場面が見受けられることも御座います。
例えば、西観音寺は当然『浄土宗』の教えを頂く『浄土宗』の寺でありますが、たまに宗派(教えの拠り所)もハッキリしない様な導師が勤める葬儀もあると聴いたこともあります。
或は葬儀社提携の僧侶が遠方からやって来て葬儀の導師だけは勤めたものの、遠方を理由にその後中々思うようにお参りにも来てくれない、施主がお寺に出向くにも遠すぎて・・・ということで後になってその方が西観音寺を探してお参りの依頼に来られる事も御座います。
勿論、特に突然のご不幸の場合などはお葬儀を出される方も慣れないことゆえ、「気が付けばすべての段取りを決められていた」と聴いたこともあります。

ただ、お葬儀を勤められる側は、お葬儀を「形だけの、世間体の為の儀式」だから「安く済みさへすればそれで良い」などと、とらえては絶対にいけません。

単なる「体裁」や「お別れ会」では絶対にありませんし、まして葬儀の導師はその演出の為に存在しているのではありません。

葬儀は何も『派手に仰々しくなさることが良い』という話では全くありませんが、人としての縁をいただいて生きてこられて、さまざまな御縁によって現世での縁尽きた時『 現世を捨て去って極楽浄土に生まれ変わること 』が『 できられるのかどうか ~ 』に係わる大事な儀式であります。

これは『 たましいの救済 』に係わる一大事であります。

テレビに流れる葬儀社のコマーシャルなどでは「送る側」の都合のことばかりに目を向けて上手に宣伝しておりますが、一番大切な「送られる側、本人」の「たましい」の問題には一切触れません。
しかしそれこそが本来、葬儀式に於いて一番大事なのではないかと考えております。

私達はその大事を浄土宗の御教えに依り御念仏に託しているのであります。
浄土宗宗祖・法然上人の御念仏の御教えを真っ当に受け継ぎ、御教えの通りに仏説(お釈迦様の御教え)に叶った御念仏を称え、そしてまたご回向させていただくのであります。

お葬儀の導師を勤める時には「故人様の極楽往生を心から信じ願って、極楽往生を確信しての誠心誠意の念仏回向を勤める」のであります。
それが導師の役目、「たましいの救済」の役目だと心得ております。
そしてまた、残されたご家族にもお葬儀を縁として念仏信仰をお受け取りいただくことも大切な役目と考えております。

お葬儀の導師は「葬儀だけ勤めて導師のお布施だけもらったら後は知らん!」と言うものではありません。

                                                  


ご遺骨について

ご遺骨に関しまして随分と薄情なお方もおられるようです。引き取った遺骨の処分に困り、電車の網棚にわざと置いて行った人やロッカーに置き去りにした人もある、と言う話は随分前からありました。

それぞれご遺骨との関係性やご事情は分かりかねますが、確かにお骨やお墓の問題に関しましてはそれぞれに色々と難しい問題もありましょう。しかし、決してご遺骨を粗末にしても良いという話にはなりません。

ある仏教学者曰く「そもそも仏教は執着をするなと説く教えであって、死んだ後の遺骨などに執着する必要は全くない。遺骨はただの抜け殻である」と。
さらに「火葬した後の遺骨はそのまま火葬場に全て置いてくればいいのだ」と…。なんだか悲しくなりますが…。

このような方々は仏教の一部だけを捉えて、「頭だけで理解する哲学」と錯覚なさっています。本来の仏教はもっと血の通った教えであります。

例えば、大恩ある親の遺骨を、もしも「ただの抜け殻であるから執着しない。捨てても良い」などと言える人ならば、そんな人は亡き親の懐かしい写真をも「ただの印刷物だ」とチラシのようにゴミ箱に捨てれる人です。それは単なる「薄情な人」でしかありません。人により特別な親子関係もございましょうが、普通に愛情を注がれて育てて頂いたとするのならばそんな人は「情のある人」とは到底思えません。

震災や津波で埋もれ、あるいは流されて亡くなった大切な人の写真をやっと瓦礫の中から見つけ出し、抱きしめて泣くのが人の心ではないでしょうか。ボランティアでせめてそれらの写真を持ち主の方にと必死に探して下さるのが血の通った人の情ではないでしょうか。まして遺骨となれば、大切な方の最期の、唯一遺された「形あるもの」です。先の学者などは戦後の遺骨収集などどのようにお考えなのでしょうか。

お釈迦様亡き後、信者達はその遺骨【仏舎利(ぶっしゃり)】をまさしくお釈迦様そのものとして大切にし、仏塔を建てて祀ったのであります。そこにお釈迦様がおられるがごとくに懐かしく拝んだのであります。

人には色々なご事情があります。何も「遺骨にどこまでも執着せよ」というわけでは決してありませんし、まして「丁寧にしなければ怖いもの・厄介なもの」などと受け取られる必要は一切ございませんが、やはり「薄情・粗末」に扱うのは如何なものなのかと思うのです。

浄土宗の御教え、お念仏の御教えは「情」を通してより深く亡き方との縁を結んで頂ける御教えです。それぞれのご事情に合わせてできる限りの形で大切に思って頂けたらと思うのです。

様々なご事情でご遺骨についてご相談をお聞きすることが増えて参りました。
ですので、西観音寺では、できる限りご負担にならないようにそれぞれのご事情に合わせて納骨して頂けるように合祀(ごうし)納骨という形も新たに設けました。
ご遺骨についてお悩みのときは一度ご相談ください。